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1.守山の由来
守山市は鈴鹿山系から流れ出る野洲川が琵琶湖に注ぐ扇状地の南側に位置しています。
とても肥沃(ひよく)な土壌であったために野洲川の下流流域では早くから人々が生活していました。野洲川の改修工事で発見された服部遺跡は、縄文晩期からの大遺跡で近隣からは数個の銅鐸も出現しています。
守山と呼ばれるようになった由来は、平安時代の初期に比叡山の四門(東西南北)を守る寺として東門院が建立され、それ以来この地を守山(比叡山を守る)と呼ばれるようになったと東門院の寺伝に残されています。
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東門院 |
2.壬申の乱・安川濱の戦い
守山駅東にあたる立入は、古代交通の要衝でしたので何度か戦の場になりました。
古くは壬申の乱(672年)での安川濱(やすがわほとり)の戦いが有名です。
壬申の乱は、大津宮にあった天智天皇が崩御されたのちに皇位継承をめぐって起こった内乱で、この地での戦いが近江の国に入って最大の決戦であったといわれています。
また中世以降も野洲川周辺はたびたび戦の場となり、1487年の応仁の乱では、野洲川の河原で六角高頼と細川政元が、1570年の元亀元年には、野洲川を挟んで六角軍と織田軍との戦いがあったことからも昔から往来の要地であったことが伺えます。 |

現在の野洲川
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3.日本初の療養施設・益須寺
日本書紀によると、いまから1300年ほど昔の持統天皇七年(693年)に近江国益須(やす)郡の都賀山(つがやま)で醴泉(れいせん:味の良い泉)が出たと記されています。
翌年、『醴泉、益須郡の都賀山に湧く』
との詔書が出されると、多くの病人が治療のために益須寺(やすでら)を訪れました。すると多くの病気が治ったため、この寺では朝廷の税を免除されるなど優遇されました。
しかし益須寺は、現在廃寺になっており、寺域などの詳細はわかっていませんが、発掘調査などから奈良法隆寺の再建時の瓦と同種のものが出土しており、法隆寺とも関わりが深かったことが伺えます。
また都賀山は現在のJR守山駅西にあたる吉身町・守山町あたりだったとされています。
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出土した瓦
画像提供:守山市教育委員会
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4.鬼武者 源頼朝
平治元年(1159年)の十二月、平治の乱に敗れた源義朝は数騎の兵を引き連れ、京から東国へと落ちていきました。
その中には父に連れられた頼朝も供に加わっていましたが、馬上で眠ってしまった頼朝は一行に遅れ守山宿に入ってきてしまいます。
それを見た地元の土豪源内兵衛真弘(げんないひょうえまさひろ)がこの落人を捕らえ平家に渡し恩賞にあずかろうとしましたが、逆に頼朝は伝家の宝刀「髭切り」で源内の首をはねてしまいました。その時、頼朝は十三歳だったといわれています。
天満宮の裏手にある薬師堂には、里人が源内をあわれみ葬ったとされる塚があり、その丸石の重い軽いによって自身の善悪が占われると地元では言い伝えられています。
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天満宮の源内塚
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